高橋泥舟・山岡鉄舟旧宅跡を巡る|高橋泥舟・山岡鉄舟ゆかりの地

2024.12月 東京史跡巡りの旅

前回は小石川の街並みの中を歩き、旧同心町の歴史に触れつつ、「徳川慶喜終焉の地」を巡っていきました。

続いて訪れるのは、新選組誕生にはなくてはならない清河八郎にも所縁の深い場所。同志である高橋泥舟・山岡鉄舟が住んでいた旧宅跡が、この小石川には存在します。伝通院からも歩いて行ける距離にあるので、当時の地理的な距離感を体感できるのではないでしょうか。
前回の「徳川慶喜終焉の地」から引き続き、今回は「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」を巡って行きます!

高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡のアクセス・基本情報

高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡のアクセス・基本情報

〒112-0002 東京都文京区小石川5丁目22

・東京メトロ丸ノ内線「茗荷谷」駅より徒歩約7分
・都バス都02、都02乙「小石川四丁目」「小日向四丁目」より徒歩約1分
・文京区コミュニティバスBーぐる(目白台・小日向ルート)「28番:胡蝶蘭専門店らんや(播磨坂)」目の前

高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の地図

滞在時間

私の場合、旧居跡の確認と写真を撮る程度だったので、滞在時間は5分程度
播磨坂さくら並木をじっくり歩かれる方は、もう少し時間がかかるのではないでしょうか。参考までに。

徳川慶喜終焉の地から高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡への行き方

「徳川慶喜終焉の地」から徒歩にて「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」へ向かったたため、参考までに私が歩いたルートをご紹介します。

春日通りから播磨坂さくら並木に向けて歩く

「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」は、春日通りをもう少し進んだ先の「播磨坂さくら並木」にあります。「徳川慶喜終焉の地」から徒歩10分ほど。
今井坂を上り来た道を戻り、春日通りに出て左折。そのまま春日通りを「🚥小石川郵便局前」→「🚥茗台めいだい中学校前」と直進していきます。

「🚥小石川五丁目」の信号の中央分離帯が遊歩道になっており、「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」の案内板が設置されています。

小石川五丁目の信号。奥に見える中央分離帯に、「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」案内板がある。

高橋泥舟・山岡鉄舟が暮らした場所

高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の案内板

信号を渡ってすぐの遊歩道に「播磨坂さくら並木案内図」と「周辺案内図」が並んでおり、その少し先に「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡の案内板」が設置されています。

高橋泥舟・山岡鉄舟 旧居跡の案内板。

実際に屋敷があったのは、この案内板が設置されている場所から車道を挟んだ目の前。現在マンションなどが建っている所になります。

高橋泥舟・山岡鉄舟の住居が建っていたとおもわれる場所。今はマンションが建っており、面影はない。

高橋家は享保5年〔1720〕、山岡家は文化8年〔1811〕以降この地に移り住んだものと思われます。2家隣接していたんですね。

山岡鉄舟宅は、清河八郎が一時寄宿していました。文久3年〔1863〕4月13日、清河八郎暗殺の際には石阪周造より渡された清河の首を床下に埋めています。
また、慶応3年〔1867〕10月19日には浪士組創設に参画した伝通院塔頭である処静院住職、琳瑞りんずいが高橋泥舟宅からの帰路を刺客に襲われ命を落としたりと、何かと因縁のある場所です。

古地図で見る当時の様子

案内板には、当時の古地図が載っており、現在地から見て当時どの場所に両宅があったのかが分かりやすく示されています。

もう少し分かりやすいものを下の古地図に。嘉永7年〔1854〕東都小石川繪圖 ([江戸切絵図])です。
赤丸で囲んであるところが、高橋家と山岡家の住居。現在の地図で比較してみましょう。

東都小石川繪圖 ([江戸切絵図])、戸松昌訓 著(出版者:金鱗堂尾張屋清七、嘉永7 [1854])/ 2コマ
GoogleMAPより引用。現在の高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡周辺。

区画整理の影響で、環状3号線の道路が旧居跡の方まで伸びているのが見て取れますね。地形が若干変わっています。
ちなみに、「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」の周辺には、「石川啄木終焉の地」もあります。

伝通院と「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」を古地図で見ると、こんな距離感。

戸松昌訓『東都小石川繪圖 ([江戸切絵図])』(金鱗堂尾張屋清七、嘉永7 [1854]、2コマ)

江戸開城の功労者、高橋泥舟・山岡鉄舟とは?

江戸城無血開城の功労者、維新の三舟とも呼ばれる高橋泥舟と山岡鉄舟。そんな2人がいかなる活躍をして名を知らしめるに至ったのか。その生い立ちを見ていきましょう。

出生、幕臣としての栄進

槍術を極め、講武所槍術師範となる高橋泥舟

高橋泥舟は天保6年〔1835〕2月16日、旗本山岡市郎右衛門正業の次男に生まれます。兄は山岡静山せいざん
名は政晃。「泥舟」は号です。のちに伊勢守を称します。
嘉永4年〔1851〕10月、高橋泥舟が17歳の時に子供の居なかった母方の実家、高橋包承の養子になりました。

高橋家は代々薙刀、槍、剣術の師範家で、実兄の山岡静山やまおかせいざんも高橋泥舟の養祖父、高橋義左衛門の弟子でした。のち、高橋泥舟は山岡静山に就いて槍を修業します。

安政2年〔1855〕正月に養父鏈之助が病没すると高橋家を継ぎ、翌年には講武所(幕末期、旗本御家人に剣槍砲術などを講習させるために設けた所)槍術教授、万延元年〔1860〕閏2月には将軍家茂より講武所槍術師範を拝命しました

文久2年〔1862〕12月、講武所師範二丸留守居席布衣となり、一橋慶喜が上京する際にその警護として隊士を率いてしたがいます

山岡家に養子入り、泥舟の義兄弟となる山岡鉄舟

山岡鉄舟は、天保7年〔1836〕6月10日、江戸本所大川端四軒屋敷の御蔵奉行おくらぶぎょう官邸(東京都墨田区)に、幕臣小野朝右衛門高福たかとみ(高六百石)の五男として生まれました。
通称は鉄太郎。いみな高歩たかゆき「鉄舟」はです。

鉄舟が10歳の時、父親の朝右衛門が江戸御蔵奉行から飛騨ひだの郡代に任ぜられ、その在任中に高山(岐阜県)に招いた井上清虎きよとらに北辰一刀流を学びます。

両親を相次いで亡くした後、嘉永5年〔1852〕江戸に戻り、翌年には北辰一刀流の千葉道場玄武館に入門。その隣にあった儒学者東条一堂の塾に学び、ここで清河八郎をはじめ、後に行動を共にする多くの友人と出会います。安政6年〔1859〕頃には清河八郎主宰の政治結社「虎尾の会」への参加もしています。

安政2年〔1855〕には自得院流槍術の名手、山岡静山せいざん(高橋泥舟の実兄)へも入門。しかし、一年足らずで山岡静山が死去してしまいます。この時、高橋泥舟はすでに高橋家の養子となっていたため、残る山岡家の男児はまだ幼い信吉のみ。山岡鉄舟は信吉の養嗣子となり、高橋泥舟の妹英子ふさこを妻とし、山岡家を後見することになりました

こうして、山岡鉄舟と高橋泥舟は義兄弟となります。
翌年には玄武館の推薦で、部屋住みから召し出され、小野鉄太郎として講武所剣術世話心得に登用されました。

浪士組結成からの解散と謹慎

文久2年〔1862〕12月5日将軍徳川家茂が奉勅攘夷ほうちょくじょういを誓約したことによって、攘夷問題と京都に結集していた攘夷志士たちの統制が、幕府の大きな課題となっていました。これらを解決するために提案・組織されたのが「浪士組」です。

浪士組結成には清河八郎を始め、幕臣である山岡鉄舟の働きかけも大きく作用しました。文久3年〔1863〕2月8日、集まった総勢250人余りが上京することになります。
山岡鉄舟も浪士取扱役として、この一隊に加わりました。

他方、一足先に上京していた高橋泥舟は徒頭席に昇った後、この年の3月に将軍家茂より浪士取扱兼師範の命を受けます。この時、勅許を得たうえで従五位下伊勢守に叙せられました
そのうえで、将軍家茂の下で臨時的に組織された在京の幕閣は、高橋泥舟に浪士組を引き連れて早々に江戸へ帰る様命令を出します。

3月13日、山岡鉄舟や高橋泥舟をはじめとした浪士組のほとんどが、江戸に帰還することになりました。京に残った20数人ほどは、後に新選組を組織することに。

江戸に戻った浪士組は、横浜の外国館を焼き払い攘夷を行おうと考える過激な者もおり、次第に統制が取れなくなっていきます。これに危機感を抱いた幕府は文久3年〔1863〕4月13日、浪士組の中心人物であった清川八郎の暗殺に踏み切りました。

同時に、同志であった石坂周造ら浪士組幹部は一斉捕縛。浪士組は解体され、新徴組として庄内藩預かりとなり、江戸の治安維持部隊として活動していくことになります。

幕府の人間である山岡鉄舟、高橋泥舟は役職を罷免され、謹慎処分となってしまいました。謹慎中の2人の動向は、史料に乏しく現在でもよく分かっていないようです。

江戸城無血開城の立役者

高橋泥舟・山岡鉄舟が再び歴史の表舞台に躍り出るのは慶応2年〔1866〕。ここから、彼らの本領が発揮されていきます。

高橋泥舟は謹慎を解かれ講武所槍術師範に復したのち、この年の11月に講武所が解体されると、新設された遊撃隊の頭取となります
明治元年〔1868〕2月、鳥羽伏見の戦いに敗れた将軍慶喜が帰東し上野の寛永寺に謹慎すると、遊撃隊を率いてこれの警護に当たりました

同じ年の3月、山岡鉄舟は将軍慶喜の身辺警護の任にあたる精鋭隊の頭取・歩兵頭格に登用されます。
この時、敗戦処理を穏便に済ませたい徳川慶喜より、有栖川宮総督率いる東征軍の参謀、西郷隆盛との事前交渉の任を与えられたのが山岡鉄舟。これは、徳川慶喜に恭順を説いた高橋泥舟仲介のもと行われたと言われています。

陸軍取扱であった勝海舟と相談し、明治元年〔1866〕3月6日、山岡鉄舟は薩摩人でかつての「虎尾の会」同志である益滿休之助を道案内に、東征軍が駐屯する駿府(現:静岡県)へと急行。西郷隆盛と話し合い、示された降伏条件を手に江戸に戻ります。

この事前交渉の上、江戸にて西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸城無血開城が果たされました
山岡鉄舟の功績は大きく評価され、5月11日御前に召されて来国俊の短刀を拝領しています。

幕臣主戦派への対応と、徳川家存続に苦心

慶応4年〔1868〕4月10日、山岡鉄舟は徳川家家臣山岡家の家督(高百俵・五人扶持)を許され、短期間のうちに徳川家の作事奉行格・大目付を経て、若年寄格へと昇進。ここから、本格的に徳川家敗戦処理に従事していくことになります

江戸では新政府軍への主戦論を展開する彰義隊への説得を試みますが、これは失敗に終わっています(慶応4年〔1868〕5月、上野戦争勃発)。

この年の5月20日、山岡鉄舟は勝海舟と共に徳川家幹事役となり、徳川慶喜の駿府(現:静岡県)への転居に伴い家族を連れて駿府へ。版籍奉還後の明治2年〔1869〕9月20日静岡藩権大参事となり、大久保一翁などと共に、江戸から駿府へと移住してくる旧幕臣たちへの対応や、土地のインフラ整備などに着手しました。

高橋泥舟は、徳川家の家督を継いだ家達いえさとより用心に任じられ、山岡鉄舟と同じく徳川慶喜の駿府転封に従って、江戸から駿府へ移住。明治2年〔1869〕正月、田中奉行に任じられました

高橋泥舟・山岡鉄舟のその後

地方奉行を辞し、市井に身を置く高橋泥舟

地方奉行を務めた高橋泥舟は、廃藩置県を契機に職を辞し、市井にてその生涯を終えます。東京に隠棲してからは槍を筆に持ち替え、専ら書を楽しんで世を送りました。
明治36年〔1903〕2月13日、牛込矢来町の自宅にて病没。享年69歳。墓は東京都台東区谷中6丁目の大雄寺。

長昌山 大雄寺公式サイト
〒110-0001 東京都台東区谷中6丁目1−26

東京メトロ千代田線『根津駅』より徒歩11分
東京メトロ千代田線『千駄木駅』より徒歩13分
都営バス(上26)『谷中』バス停より徒歩2分
都営バス(上26)『上野桜木』バス停より徒歩6分

地方官を経て天皇の侍従となる山岡鉄舟

静岡藩の藩政に従事していた山岡鉄舟は、廃藩置県後の明治4年〔1871〕11月茨城県参事、次いで12月には伊万里県令(現:佐賀県)となり九州に赴任しました。任期はいずれも短期間でしたが、地方官を経た明治5年〔1872〕6月、宮内省に出仕し天皇の侍従となります
この宮内省出仕に当たって山岡鉄舟は、自ら10年間の任期を設けました。

明治15年〔1882〕6月には宮内省を辞しますが、請われて宮内省御用掛を命じられ、亡くなるまでの6年間その職務を全うします。明治20年〔1887〕子爵を授けられました。

東京に定住するようになってから、山岡鉄舟の元には旧幕臣やかつての同志たちが集い、こぞって揮毫を求めたといいます。もともと幕府の直轄領であった関東では、山岡鉄舟の人気が非常に高かったのです。

また、公務の傍ら剣道教育にも力を入れ、明治16年〔1883〕には屋敷の裏庭に「春風館道場」を建設。若い頃から修業に励んでいた禅と剣の一致を凝らし、明治13年〔1880〕には極意を得て「無刀流」を創始します。
そんな山岡鉄舟、生涯で一度も人を斬らなかったそうですよ。

明治21年〔1888〕7月19日、胃癌により病没。享年53歳。墓は山岡鉄舟が建立した東京谷中の全生庵。

全生庵(公式サイト
東京都台東区谷中5-4-7

JR・京成電鉄「日暮里駅」徒歩10分
地下鉄千代田線「千駄木駅」団子坂下出口より徒歩5分

参考文献
ジャパンナレッジ『国史大事典』「高橋泥舟」・「山岡鉄舟」

旧居跡周辺の見どころ

播磨坂さくら並木

「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」の案内板が建っている「播磨はりま坂さくら並木」は、第二次世界大戦の区画整理でできた「環状3号線」の一部として整備されました。この地にあった松平播磨守はりまのかみの上屋敷にちなみ、播磨坂と名付けられます。

播磨坂さくら並木案内図。太陽の位置的にうまく撮れず、案内板が反射してしまいました・・・。

昭和35年に坂の舗装が行われた際に、当時の花を植える運動の一つとして桜の木約120本が植えられました。毎年3月下旬~4月上旬頃には「文京さくらまつり」が開催されています。
詳しくは「文京区公式サイト」で確認してみてください。

松平播磨守、府中藩藩主

松平播磨守は、常陸ひたち新治にいはり府中ふちゅう(現:茨城県石岡市)に陣屋を置いた府中藩藩主。石岡藩とも呼ばれ、定府大名で、代々播磨守です。
古地図が描かれた嘉永7年〔1854〕当時の藩主は松平頼綱まつだいらよりつぐ。府中藩松平(水戸)家9代目藩主です。
天保15年〔1844〕には水戸藩主徳川斉昭とくがわなりあきに致仕し、謹慎の幕命を伝える役割を果たします。斉昭の跡を継いだ徳川慶篤とくがわよしあつの後見役となりました。

戸松昌訓『東都小石川繪圖 ([江戸切絵図])』(金鱗堂尾張屋清七、嘉永7 [1854]、2コマ)

石川啄木終焉の地

「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」近くには、「石川啄木いしかわたくぼく終焉の地」があります。
歌人・詩人・評論家として知られる石川啄木は、明治44年〔1911〕に文京区本郷に間借りしていた理髪店「喜之床きのとこ」から、家族と共にこの地に移り住みました。石川啄木の母親は肺結核を患っており、翌年の3月に亡くなります。

石川啄木自身も肺結核を患っており、母親の死から一ヶ月後の4月13日、この場所にて27年の生涯を終えました。

現在この隣接地に「石川啄木終焉の地歌碑」と「石川啄木顕彰室」が設置されています。詳しくは「文京区公式サイト」にて。

最後にひと摘み

今回は「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」を巡っていきました。新選組とも関りの深い彼らの足跡を、地理的な距離感と共に体感できたのではないでしょうか。

旅はまだまだ続きます。お次は場所を牛込柳町に移し、近藤勇・土方歳三・沖田総司らが天然理心流を学んだ道場、「試衛館跡」を巡って行きます。その様子も次回お届けしていきますので、一緒に史跡巡りしている気分を味わっていただければ嬉しいです。

次の史跡巡り地「試衛館跡」はこちらから▼

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