「ケイキさんの梅屋敷」こと【徳川慶喜巣鴨屋敷跡地】|見どころやアクセス、巡った感想も!

江戸幕府第15代将軍、徳川慶喜。
水戸での長い謹慎生活を経て、ようやく東京の地に出てきた彼が最初に住んだのがここ、巣鴨でした。
当時、周辺の人々から「ケイキさんの梅屋敷」と親しみを持って呼ばれたそのお屋敷は現存しておらず、今はかつての在所を示す石碑が立つのみ。
この記事では、
- 徳川慶喜巣鴨屋敷跡地の歴史
- 見どころヤアクセス
- 巡った感想
を詳しくご紹介します。
巣鴨商店街を巡るついでに、ちょいと足を延ばしてみてはいかがでしょうか。

本妙寺から徳川屋敷巣鴨屋敷跡地へ
今回の旅の出発地は本妙寺。

こちらから徳川屋敷巣鴨屋敷跡地へ向います。
JR巣鴨駅に向けて「白山通り」を真っ直ぐ歩き、所要時間は約10分ほど。
そろそろ足が疲れてきました。史跡巡りは沢山歩くなぁ・・・。
JR巣鴨駅を左手に通り過ぎ、山手線にかかる「巣鴨橋」を渡って行きます。
ここは巣鴨並木通りがあるので、春ごろに来れば桜が満開なんだろうなぁと横目に眺めつつトコトコ。残念ながら今は時期が真逆すぎて、植物も見るものすべてが寒々しい。
巣鴨橋を渡って数分歩くと、コンビニローソンの目前の歩道に、石碑と案内板が設置されています。
徳川慶喜巣鴨屋敷跡地の詳細情報・地図
住所 | 〒170-0002 東京都豊島区巣鴨1丁目18 |
アクセス | 🔷JR「巣鴨駅」南口から徒歩約3分 |
徳川屋敷巣鴨屋敷跡地

時刻は14:30過ぎ。巣鴨駅周辺は人通りも多いです。その流れ中、ローソンを目印に辿り着いた石碑の前で、流れを外れてピタリを足を止めます。
歩道に石碑と案内板が並んでおかれていて、竹囲いっぽくなっていました。和風味があってなんかおしゃれ。

周辺の写真も撮りたかったのですが、この人通りの多さ。
さすがにスマホを構えるのも気が引けてしまって、諦めました。史跡巡ラーとして、もっと強い心を持たないといけませんね。
とはいえ、石碑や案内板を除いて、当時の名残は全くありません。
屋敷があったと思われる一体も、現在は数階建てのビルだのアパートだのが所狭しと並び立っています。
うーん、石碑がないと完全に分からないわ

「ケイキさんの梅屋敷」

徳川慶喜は江戸幕府15代、最後の将軍です。
鳥羽伏見の戦いに敗れた後、最初は水戸で、次いで静岡で30年近く謹慎生活を送りました。
明治30年〔1897〕になってようやく東京に移り住むのですが、その最初の地に選んだのがここ巣鴨。
この時の徳川慶喜は齢61歳。
巣鴨邸の敷地の奥は、故郷水戸に因んだ梅林になっていたことから、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたそうですよ。
「よしのぶ」じゃなくて「ケイキ」呼びなんだ

どこかの本で読んだのですが、徳川慶喜がまだバリバリの将軍だった頃、徳川慶喜を悪く言う人々が「ケイキ」という呼び方をしていたんだとか。でも、本人的には結構気に入っていたらしい。
おぼろげな記憶なので、間違っていたらごめんなさい(笑)。
屋敷門は現在の白山通り(旧中山道)に面していたとのことなので、入り口の向きとしては石碑が建っている、こちら側が正面だったんでしょうか。
徳川慶喜が巣鴨に住んでいたのは4年間ほど。
その後は小日向第六天町(現:文京区小日向1,4丁目付近)にお引越しします。
現在、その場所には「徳川慶喜終焉の地碑」が建てられています。

ちなみに、巣鴨からの引っ越し理由は「巣鴨邸のすぐ脇を鉄道が通ることに決まり、その騒音が嫌だったから」らしいです。
確かに、現代でも電車近くの家って騒音大変そうだもんねぇ。私が住んでいる田舎ですら、そこそこ遠いところからでも電車の通過音が聞こえてくるんだもの。
古地図で見る、巣鴨屋敷推定地

解説版の下には、江戸切絵図も設置されていて、江戸時代の巣鴨の様子が分かるようになっています。
この切絵図自体は嘉永7年〔1854〕に刊行されたものなので、巣鴨屋敷がそのまま記されているものではありません。「だいたいこの辺にありましたよー」という程度。

案内板の地図が小さかったので、該当部分を拡大。
中山道に面した「巣鴨町下組」と書かれた所辺りに、巣鴨屋敷が建つことになります。
黒丸で印をつけた所が、先ほど巡ってきた巣鴨の江戸六地蔵尊眞性寺。徳川慶喜の屋敷から比較的近い場所にあったことが良く分かります。
きっと慶喜さんも、眞性寺に江戸六地蔵を拝みに行っていたんじゃないでしょうか。
まとめ
しばし当時の巣鴨に想いを馳せつつ、屋敷跡地を後にしました。
ここでの滞在時間は5分程度。
巣鴨駅から歩いて2,3分程度の距離にあるので、とても近いです。
徳川慶喜ファンの方はもちろん、巣鴨観光に訪れた際には、ついでに訪れてみてはいかがでしょうか。