東京の史跡を巡るために遥か長野の地から勇んでやってきた私。
前回は新選組の原点である浪士組が誕生した地、「伝通院・処静院」を巡って行きました、
しかし、まだまだ旅は始まったばかり。ここ、小石川にはまだまだ魅力的な史跡があるのです。
前回の「伝通院・処静院跡」から引き続き、今回は「徳川慶喜終焉の地」と「徳川慶喜公屋敷跡」を巡って行きます!
徳川慶喜終焉の地のアクセス・基本情報
徳川慶喜終焉の地のアクセス・基本情報
〒112-0003 東京都文京区春日2丁目8−9
所在施設 国際仏教学大学院大学
・東京メトロ丸の内線(M22)南北線(N11)後楽園駅より徒歩約18分
・伝通院より徒歩約10分
徳川慶喜終焉の地の地図
伝通院から徳川慶喜終焉の地へ
春日通りを歩く
伝通院から慶喜邸跡までは春日通りを経由して徒歩10分ほど道のりです。
伝通院を後にして、山門を背に「伝通院通り」を進んでいきます。右手には、「福聚院大黒天」と「福寿院幼稚園」が。平日だったこともあり、園児の遊び回る声がにぎにぎしく響いてしました。
「🚥伝通院前」の横断歩道を渡って右折し、春日通りを直進していきます。
春日通りを歩いていると、文京区が設置した旧町名案内が所々に設置されていました。
旧同心町と呼ばれた地区
春日通りに接するこの一帯は、幕府の先手組の同心屋敷があったので、俗に「同心町」と呼ばれていました。(昭和41年までの町名)。
先手組は組頭の下に与力・同心で組織され弓組と鉄砲組とがあり、将軍出陣のときには先鋒を務めます。平時は江戸城本願の諸門警備や、将軍が参詣などの外出の際にはその警備の任にも当たりました。先手組の組頭は火付盗賊改を兼ねており、与力・同心は市中の警護も行いました。
先手組の職制は、慶応2年〔1866〕に廃止され、文久2年〔1862〕に独立の役職となっていた火付盗賊改も、同時に廃止されます。
嘉永7年〔1854〕の古地図では、「同心町」の地名。あちらこちらに「先手組」の文字が見受けられますね。ちなみに、「御先手組鉄砲角場」の「角場」とは、小銃の射撃練習を行う場所の事です。射撃場もきちんと整備されていたことが分かります。
信号を二つほど通り過ぎ、右側に「東京学芸大附属竹早中学校」「東京都立竹早高等学校」の校門が見えてくればもうすぐですよ!
「biossa グルテンフリーベーカリー専門店」を目印に、左折して小道に入って行きます。
しばらく直進して線路を渡ると、「徳川慶喜終焉の地」に到着です。
徳川慶喜が晩年を過ごした場所
徳川慶喜終焉の地を示す案内板
国際仏教学大学院大学の敷地の前に、「徳川慶喜終焉の地」の案内板が設置されています。
江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜
徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭(諡号:烈公)の七男として、天保8年〔1837〕9月29日江戸の水戸藩邸にて出生。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼少期を水戸藩で過ごします。
弘化4年〔1847〕9月に一橋家(御三卿の1つ)を相続後、当時将軍であった徳川家定の継嗣問題が起こり、複雑な政局の中で慶喜は井伊直弼による安政の大獄処断により謹慎になります。
許された後、将軍後見職となり朝幕間を奔走。元治元年〔1864〕禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を命ぜられます。将軍徳川家茂が大坂城で病死すると、これに代わって徳川家を相続し慶応2年〔1867〕に第15代将軍の座に着きました。
翌慶応3年〔1868〕大政奉還し、次いで勃発した鳥羽伏見の戦い後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎(4カ月ほど)。その後、静岡の地に移り住み、30年という長い時間をその地で過ごしました。
徳川慶喜が静岡から東京に移住したのは、明治30年〔1897〕。最初は東京の巣鴨に居を構え、昭和34年〔1901〕に誕生の地である旧水戸藩屋敷に近いこの地(小日向第六天町邸)に移り住みました。
昭和35年〔1902〕公爵を授けられ、その後勲四等・旭日小綬章、次いで勲一等・旭日大綬章を受け、朝敵とされた過去から名誉の回復がなされます。
大正2年〔1913〕11月22日、急性肺炎により病没。享年77歳。墓は東京都台東区谷中の徳川家墓地にあります。
参考文献
・ジャパンナレッジ 国史大事典「徳川慶喜」
・徳川慶喜:将軍家の明治維新 松浦玲著(中央公論社、1975年)
・徳川慶喜のすべて 小西四郎著(新人物往来社、1984年)
古地図で見る慶喜邸の面影
昭和6年〔1931〕の小石川区小日向第六天朝・金富町西部地区の地図。「徳川公爵邸」の記載があります。
黒丸で印をつけてある「金富尋常小学校」は現在も同じ場所に「区立金富小学校」が、「龍閑寺」は現在も同じ場所にお寺が存在してるので、分かりやすいです。
慶喜公屋敷大銀杏
「徳川慶喜最後の地」の案内板のすぐ近く、国際仏教学大学院大学の敷地内に、慶喜屋敷に生えていた大銀杏があります。私が行った時も門が開いていたので、少しお邪魔して見学させてもらいました。
時期が悪く、銀杏の葉はすっかり落ちてしまっていましたが、年月を感じさせる立派な幹でした。
屋敷があった当時は、この大銀杏の東側には正門があり、南側には玄関と築山を囲む馬車回しがあったそうです。
今井いまい坂(新坂)
徳川慶喜屋敷邸跡(現:国際仏教学大学院大学)の横には、「今井坂」と呼ばれるキツイ坂道があります。坂の途中には説明版が設置されていました。
「続江戸砂子」によると、今井坂のおこりは、坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名付けた大木がありました。これにより、今井坂と呼ばれるようになります。
嘉永7年〔1854〕の切絵図に「新坂(シンザカ)」が描かれています。
新坂の左側にある、徳川慶喜屋敷が建つことになる敷地。この当時は荻野山中藩大久保長門守の屋敷が建っていました。
この傾斜のキツさ、伝わりますかね?(笑)
下るのも上るのも大変ですが、人通りや車通りは結構ありました。生活用道路として使われているようですね。
この下り坂を下りきると、右手に大学の正門があります。そこには、「徳川慶喜公屋敷跡」の碑が建てられています。
徳川慶喜公屋敷跡碑
碑の裏側にも、説明書きがありましたが、文面は「慶喜公屋敷大銀杏」の前に建っていた碑と同じものでした。
正門から見てみると、かなり広い敷地だなぁと感じます。慶喜屋敷は一体どれほどの大きさだったのでしょうか。大通りから少し離れたのこの場所は静かで過ごしやすそう。
静岡や東京での謹慎生活中は、専ら趣味に生きた慶喜さん。自転車や自動車も乗りこなす新しもの好きだったとのこと。亡くなるまでの約10年間、この地でのんびり過ごしていたのかなぁ、なんて思いつつ、徳川慶喜終焉の地を後にしました。
ここから春日通りに戻り、次なる史跡「高橋泥舟・山岡鉄舟宅跡」へと向かいます。
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