試衛館は、天然理心流四代目の近藤勇が道場主として天然理心流の稽古をつけていた道場です。
沖田総司や土方歳三、井上源三郎ら門弟を筆頭に、後に浪士組として上洛し新選組を組織する面々が集い、剣技を磨き、時に国論を語り合った場。
前回の「高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡」から引き続き、今回は「試衛館道場跡」を巡って行きます!
試衛館道場跡のアクセス・基本情報
試衛館道場跡のアクセス・基本情報
試衛館道場跡の地図
滞在時間
私の場合は5分ほどの滞在時間でした。
試衛館道場跡は、標柱と試衛館稲荷が残るのみ。住宅街の一角にちょこんと存在するため、写真をササっと撮って終わり、という感じです。
牛込柳町駅から試衛館道場跡への行き方
最寄り駅の大江戸線「牛込柳町駅」南東口から出るのが、最も近いです。駅を背に、左に向かって進み、直ぐの路地を左に入ります。
ゆるやかな坂を上り、「喫茶まちぶせ」のお店が右手にあるT字路を左に入ると、住宅地の間に縫うようにあるのが試衛館道場跡。突然ぽっかりと穴が開いたように現れるので、うっかり通り過ぎそうになりました。ご注意ください。
石畳を辿った奥、階段を数段下ると標柱と稲荷がポツンと建っています。
ここだけ流れる時間が違う、現実から切り離された空間に感じたよっ
試衛館道場跡の現在の様子
標柱に記された説明書き
標柱文「試衛館」跡
幕末に新選組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市ヶ谷甲良屋敷内(現市谷柳町二五番地)のこのあたりにありました。この道場で、後に新選組の主力となる土方歳三、沖田総司などが剣術の腕をみがいていました。
現在残るのは、この標柱と稲荷のみ。周辺はアパートなどの住宅地が密集しており、当時をしのばせるものは他にありませんでした。
標柱にも「試衛館がこのあたりにあった」と書くにとどめている通り、場所については市谷甲良屋敷にあったと言われる以外、詳細な場所については分かっていません。
唯一残る試衛館の名残「試衛館稲荷」
試衛館跡があるこの地にあることから、最近では「試衛館稲荷」の愛称で呼ばれるようになっています。
建物は大正以降に建造されているそうですが、建物の一部や敷石等は江戸期のもの。
試衛館があった当時の名称、市谷甲良屋敷の中心部にこの稲荷が建立されており、最初の建物は明暦大火〔1657〕以降、火伏、町内安全を祈願して、当時の地主、甲良家が建立したものだそうです。
以降はこの地守として永年住居した山田屋権兵衛がこの稲荷を管理していました。
現在、境内に入ることはできません。過去には歴史企画研究等主催で「試衛館稲荷初詣」として、元旦1月1日の決められた時間のみ、限定的に開門していたこともあるようです。
参考
新宿区地域復興部四谷地区協議会「第3期四谷地区協議会会議録(平成21年度)」
「試衛館」を巡る議論
現在定着している「試衛館」の名称と場所。しかし、これらにはいまだに不確定な要素が存在しています。
「試衛館」の名称
新選組の旗印が「誠」であったことから、本当は誠衛館だったのではないか?という意見もあるようです。
しかし、近藤周助と近藤勇の道場が「試衛館」であったことは、小島家の史料に楷書ではっきり残されています。
また、この「試衛館」の「館」の一字も、同時代史料では「試衛場」とされており、「試衛場」が正しいという見方もされています。現在、一般的には「試衛館」の名前が広く知られていますが・・・。
流祖近藤内内蔵助と二代目近藤三助の道場について、名称は定かではなく、「試衛館」の名称がいつから付けれら、受け継がれてきたものなのか。はたまた三代目近藤周助からなのかは不明です。
試衛館の所在地問題
試衛館の所在地として言われているのが、「小石川小日向柳町」「市ヶ谷甲良屋敷内」の2か所。
このうち、「小石川小日向柳町」は誤りであることが分かっています。
天然理心流三代目近藤周助が「市ヶ谷甲良屋敷内」に試衛館を開き、その後、近藤勇が四代目としてその道場を引き継ぎました。
近藤勇は当初、この試衛館に住んでいましたが、万延元年〔1860〕結婚を機に、住居を試衛館に至近の「牛込(市谷)加賀屋敷」に移していたようです。ここには後の新選組メンバーである沖田総司、永倉新八、藤堂平助が居候していました。
嘉永2年〔1849〕~文久2年〔1862〕刊の『江戸切絵図』「市ヶ谷牛込絵図」では、このように描かれています。
市谷甲良屋敷が市ヶ谷柳町25番地であるということから、現在25番地であるこの場所に標柱が建立されていますが、25番地内の詳細な位置は現段階では未確定とされています。
ちなみに、近藤勇は慶応3年〔1867〕6月に幕臣へ取り立てられた際、旗本の武家屋敷が並ぶ「牛込二十騎町」に住居を移していますが、道場は併設されていなかったようです。
牛込二十騎町は、市谷甲良町に隣接した地域。当時は二十騎組としてその名前が書かれています。
甲良屋敷と山田権兵衛
試衛館があったとされる甲良屋敷とは、一体どういう場所だったのでしょうか。少し深堀していきましょう。
江戸幕府の大棟梁を務めた甲良家
屋敷の持ち主である甲良家は代々、「江戸幕府作事方大棟梁」を務める家系でした。
作事方とは、建築や修繕など大工に関することを司る職のこと。その中でも大棟梁は、実際の建築工事の設計監督にあたる職です。代々大工の家系、ということですね。
甲良家の初代、甲良宗広〔1574-1646〕は近江国犬上郡甲良庄法養寺村(現:滋賀県犬神郡甲良町)の生まれで、地名をもって姓としました。慶長元年〔1596〕に徳川家康に仕え、伏見城内の工事に携わりました。のち京都吉田神社造営の棟梁となり、その功により豊後守の称を許されます。
寛永11年〔1634〕には大棟梁として日光東照宮の建設にも携わった人物です。
甲良家は町人でしたが、拝領屋敷・切米(年俸)を給されており、武士並みの俸禄と地位を認められていました。甲良家が市ヶ谷の土地を拝領したのは、元禄13年〔1700〕甲良家三代目の甲良宗賀〔1621-1717〕の頃。
当時、甲良家は切枚だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行所支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになりました。
甲良家は市ヶ谷の甲良屋敷には居住はせず、千住牛田の甲良屋敷の方に居住していたようです。
主な参考文献
東京都立図書館 コレクション紹介 「Q2.甲良家は江戸時代どこに住んでいたか」
甲良屋敷の地守、山田屋権兵衛
山田屋権兵衛は、代々市ヶ谷甲良屋敷で米、味噌、麹の製造・販売を生業としていた一族です。甲良家が市ヶ谷の地を拝領する以前から地守も務めていました。
地守とは、江戸で地主町人の所有地を管理し、地代の徴収にあたるかわり、給金や祝儀を与えられた者のこと。地守はときに、地主了解のもと管理地に家作を建て、貸すこともありました。
実際、天保10年〔1839〕近藤周助が試衛館を開く際、山田屋の敷地で開業しています。そのため、嘉永2年〔1949〕近藤勇を養子に取る際に父源次郎に宛てて書かれた「差出申養子一札之事」には、世話人(保証人)の項に山田屋権兵衛が名前を連ねています。
主な参考文献
Wikipedia「山田屋権兵衛」
試衛館に居た新選組ゆかりのメンバー
試衛館で剣技を磨いた人々の中には、のちに浪士組の一員として京に上り、新選組として名を馳せる面々がいました。
天然理心流四代目 近藤勇
嘉永元年〔1848〕11月に15歳で天然理心流の近藤周助に入門。翌2年に目録を受け、同年10月12日に近藤周助の養子となっています。近藤周助より天然理心流四代目を継いだのは文久元年〔1861〕8月、28歳の頃。
天然理心流の門弟
最初から天然理心流で剣を学んだ門弟は、井上源三郎、沖田総司、土方歳三。
他流派を学んだ後に近藤勇の門弟となった者に、山南敬助と斎藤一がいます。
山南敬助は試衛館で近藤勇と立ち合い、敗けたことから近藤勇の門弟になったと言われています。天然理心流を習得し、日野などへの代稽古を任されるまでに信頼のおける存在となりました。
試衛館メンバーの中で唯一、文久3年〔1863〕2月8日の浪士組上洛に参加しなかったのが斎藤一。彼が試衛館に門弟として居たことは、小島鹿之助の『両雄士伝』や新選組隊士でのちに御陵衛士となる阿部十郎の証言、永倉新八が著した『浪士文久報国記事』などが根拠となっています。
斎藤一は江戸生まれ。試衛館から比較的近い距離に住んでいたため、通いの門弟だったとも考えられています。
浪士組上洛後、近藤勇ら試衛館メンバーの一部が滞京するために嘆願書を提出するのですが、そのタイミングで斎藤一も合流したようで、署名者リストに斎藤一の名前が載っています。
試衛館に居ついた食客たち
食客(道場に住み込み居候する浪人、用心棒)として、試衛館に出入りしていた者には、永倉新八、藤堂平助、原田左之助が居ます。
永倉新八と藤堂平助は、沖田総司と共に近藤勇の家に居候していたことが分かっています。
特に永倉新八は、新選組隊士で当時試衛館道場から至近に住んでいた近藤芳助の書簡で「永倉新八は近藤周助の内弟子」と記されていることから、近藤勇が道場を継ぐ前から試衛館に出入りしていたようです。
近藤勇が上洛後、郷里に宛てて書いた手紙に剣術道具送付を依頼する内容が書かれているのですが、その名前の中で食客として唯一、永倉新八の名前が記載されていました。近藤勇やその門人たちと日常全般を共にしていたのでしょう。
原田左之助については最も謎が多い人物で、唯一試衛館との関りを示すのが、永倉新八が晩年に著した『新選組顛末記』のみ。実は試衛館に出入りしていなかったのでは?という見方もあるようです。
しかし文久3年〔1863〕2月の上洛する浪士組名簿には試衛館メンバーが多くを占める6番隊にその名前があることから、全くの無関係者というわけではないと思われます。
試衛館にまつわる話
外見はまぁまぁ、中は手入れの行き届いた道場内
幕臣で明治期はジャーナリストとして活躍した福知源一郎は、近藤勇と交流があったようで、後年語った話として門下生が著した『史外史譚剣豪秘話』の中で当時のエピソード綴られています。
福知源一郎が試衛館道場に訪れた際の感想を、「外見は贔屓目に見ても立派とは言えない。だが、中に入ればどこからどこまでも小綺麗で、手入れが行き届いている」と述べ、絶賛。
さらに、内部構造を「14、5坪の畳なら30枚ほど敷くことができる道場を廊下で繋いだ、6、7部屋の平屋建て」と紹介。近藤周助の隠居所や、近藤の書斎、沖田総司や永倉新八の居室となった大部屋などの構成を詳しく語り残しています。
他流派との合同稽古
幕末期、試衛館は斎藤弥九郎の練兵館と友好的な関係を結んでいたようで、合同で練習稽古をしたことがありました。
天然理心流門人で日野宿名主の佐藤彦五郎もこの練習稽古に参加しており、自身が書いた『佐藤彦五郎日記』に万延2年〔1861〕1月29日のこととして、その出来事を書き記しています。(日野市『佐藤彦五郎日記一』(2005年)P.159)
試衛館道場が大人数で稽古ができるほどの規模であったことが分かりますね。
練兵館
九段下(現靖国神社内)にあった、神道無念流・斎藤弥九郎の道場。
幕末期、江戸の三大道場の1つで「力の練兵館」と並び称された。
有名な門下生として、桂小五郎、高杉晋作、渡辺昇、谷干城、伊藤博文、品川弥二郎など。
試衛館の規模はどのくらい?
近藤勇に近しい人物として、近藤勇の甥である勇五郎の話も残っています。
それによると、前後400名以上の門弟を取り立てており、道場は三間×三間だった。そこに近藤勇は妻のツネとただ2人、女中も使わず暮らしていたそうです。
道場部分は、約5.5メートル四方のスペースだったようですね。
試衛館の懐事情
試衛館といえば「田舎の貧乏道場」というイメージが強いように思いますが、実際のところ、道場の経営を支えていたのは門人である多摩地域の豪農たちでした。
天然理心流は多摩に広く門系を作っており、門人の大部分は町名主や豪農などの有力な富裕層。そういった町名主たちは自家の庭に天然理心流の道場を作り、積極的に流派を広めていきます。
近藤勇やその門人である沖田総司、土方歳三などはそういった道場に稽古を付けに行くことで収入を得ていました。
近藤勇が四代目を襲名する際には、こういった多摩の有力者たちが1人1両ずつ出して百人講を結成し、試衛館道場の財政支援も行っています。
また、佐藤彦五郎の書状から、道場の修繕費用調達のために門人の井上源三郎や沖田総司が奔走している様子を窺い知ることができます。
天然理心流と試衛館の歴史
天然理心流は、剣術、柔術、棍法(棒術)、気合術からなる総合武術。
18世紀末に近藤内蔵之助が創始、二代目から三代目近藤周助が継ぐまでに10年以上かかったため、流派はいくつかに分派しています。また、近藤周助は剣術のみしか習得していなかったため、試衛館で教えた天然理心流は剣術のみでした。
三代目近藤周助は始め、小山村の自宅で道場を開き、その後天保10年〔1839〕市ヶ谷甲良屋敷に試衛館道場を建設します。のち、養子の近藤勇に四代目を相続。
文久3年〔1863〕2月の浪士組上洛の際には、四代目近藤勇が天然理心流の門人から志願者を取りまとめ、共に京の地へと赴きます。この間、試衛館の運営は同流門人で日野宿名主の佐藤彦五郎などに任せました。
試衛館はその後、慶応3年〔1867〕まで存続していたようです。
近藤勇は郷里への手紙で「天然理心流の後継者は沖田総司に譲りたい」と記しています。しかし、沖田総司は病死してしまったため、近藤勇の剣統は完全に途絶えてしまいました。
最後にひと摘み
かつて多くの門人たちが研鑽を積み、国論を語り合った場所、試衛館。現在は閑静な住宅街の中にあり、その面影を見出すことはできません。
だがしかし!まだ若い彼らが国事に奔走するべく心身を鍛え養った場に立つことができ、私は大感激でした。同じ角度からの写真を延々とバシャバシャ撮っていたほどに。傍から見たらただの狂人・・・。
さて、史跡巡りの旅はここから巣鴨へと場所を移し、「おばあちゃんの原宿・巣鴨」へ向かいます。巣鴨や周辺に存在する沢山の史跡を巡っていきますので、次回をお楽しみにしてください!
以上、「天然理心流の道場、試衛館道場跡を巡る旅」をお届けしましたっ
次の史跡巡り地「巣鴨地蔵通り商店街」はこちらから▼
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