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行きはよいよい帰りはこわい?川越城本丸内の鎮守【三芳野神社】|アクセスや見どころ、実際に巡った感想をご紹介!

さくらつみ
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川越城の本丸御殿東に鎮座する三芳野神社。

創立から1200年以上の歴史をもつ三芳野神社は、県下最初の権現造りで江戸城の二の丸東照宮本殿を移築した本殿が見どころです。

さらに「わらべ唄 通りゃんせの唄発祥の地」と言われ、その歌詞から当時の一般庶民の参拝風景が見てとれます。

川越城内に組み込まれ城内の鎮守として歴代藩主から篤い信仰を受けるだけでなく、「帰りはこわい」思いをしながらなお、庶民も参拝した三芳野神社は川越の歴史と切っても切り離せない重要な神社です。

この記事では現地を訪れた史跡巡り好きの私が、

  • 【三芳野神社】の基本情報
  • 【三芳野神社】の見どころ
  • 【三芳野神社】を実際に巡った感想

などを詳しくご紹介していきます。

三芳野神社の歴史や御朱印情報もご紹介していきますので、「三芳野神社ってどんな神社?」「御朱印集めをしているよ!」という方は、ぜひこの記事を参考にしてください。

三芳野神社とは?

「お城の天神様」三芳野神社の歴史

三芳野神社の歴史は古く平安時代初め、大同2年(807年)に三芳野18郷の総社として素戔嗚尊すさのおのみこと串稲田姫命くしいなだひめのみことを祭神として創設されたと伝わります。

後に菅原道真すがわらのみちざねを祭神とする北野天満宮を合祀しました。

長禄元年(1457年)扇谷上杉持朝おうぎがやつうえすぎもちともの命で太田道真おおたどうしん道灌どうかん父子が川越城を築城後、三芳野神社は城内の鎮守として本丸内に鎮座すると、歴代藩主の篤い崇敬をうけました。

さくらつみ
さくらつみ

本丸内ってことは、お城の中に神社があったってことだよね

一般の人は簡単にお参りできなくなっちゃったってこと?

ふりゅー
ふりゅー

その通り

でも制限下で庶民も参詣が許されていて、「お城の天神さま」として信仰していたんだよ

社殿は寛永元年(1624年)に徳川家光の命によって、当時の川後城主酒井忠勝によって造営されます。

明暦2年(1656年)社殿改修の際、江戸城二の丸に置かれていた東照宮の本殿が移築され、以降明治維新に至るまで徳川直営社となり幕府の庇護を受けました。

三芳野神社拝殿の正面。

明治2年(1869年)「三芳野天神社」から現在の「三芳野神社」に改名。

昭和30年(1897年)社殿が江戸期複合の権現造りとして県指定有形文化財に指定、昭和33年(1900年)に三芳野神社が川越市指定史跡になっています。

なお、三芳野神社の由緒を記したものとして慶安元年(1648年)以降、川越藩主松平信綱が奉納した『三芳野天神縁記(埼玉県指定文化財)』が現存しています。

わらべ唄「通りゃんせ」発祥の地

三芳野神社は造営後、幕府の直営社となったため一般の参拝はできませんでしたが、外宮での参拝は許されていました。

現在の郭町浄水場に二の丸東照宮の拝殿幣殿へいでんを外宮として移築し、庶民はそこで参拝していたのです。

幣殿(へいでん)

参詣の人が、幣帛や献上物をささげる社殿。拝殿と本殿との中間にある。

参考:ジャパンンレッジ『日本国語大事典』「幣殿」

わらべ唄「通りゃんせ」は誕生の宮参りの時に身に着けていた「お守り札」を天神さまに納めに行く様子を唄ったもの。

当時の川越は新河岸川の船運で江戸と密接に結ばれていたため、このわらべ唄は江戸を通じて全国に広まって行ったものだと思われます。

事前準備にお役立ち

三芳野神社の基本情報

三芳野神社の拝観時間・所在地・アクセスなどをまとめました。

※引用:三芳野神社パンフレット、関連サイト
※お出かけ前に最新の情報をご確認ください。

拝観時間

  • 24時間(境内は参拝自由)

所在地

〒350-0053
埼玉県川越市郭町2丁目25−11

アクセス

バスを利用する場合

  • イーグルバス小江戸巡回
    博物館美術館前下車
  • 東武バス小江戸名所めぐり
    博物館前下車
  • 東部バス川越駅7番乗り場
    市役所前下車
  • 東部バス川越駅1番乗り場
    札ノ辻下車

滞在時間目安

10~15分

関連サイト

ここに注目!

三芳野神社の見どころ

三芳野神社を訪れた際にぜひ注目したい見どころを、史跡スポット中心に5つご紹介します。

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拝殿・本殿は県下最初の権現造り

例大祭 4月25日

三芳野神社の拝殿正面。

寛永元年(1624年)三代将軍徳川家光の命により、川越藩主酒井忠勝が社殿・末社・本地堂・四足門を再興(建立)、幕府棟梁鈴木近江守長次が造営にあたります。

翌寛永2年(1625年)天海大僧正を導師として遷宮式が行われました。

これが現在の社殿です。

現在の屋根は銅板葺。

造営当時屋根はこけら葺(あるいは檜皮葺ひわだぶき)でしたが、弘化4年(1848年)に幕府棟梁甲良若狭により瓦葺に、大正14年(1925年)銅板葺に葺き替えられました。

社殿は昭和30年(1955年)11月1日に埼玉県有形文化財に指定されています。(参考:埼玉県の国・県指定等文化財の一覧「県有形文化財」)

三芳野神社本殿4柱の神様
  • 主祭神 素戔嗚尊すさのおのみこと(牛頭天王)
  • 主祭神 奇稲田姫尊くしいなだひめのみこと
  • 配祀神 菅原道真公すがわらのみちざねこう(天満天神)
  • 合祀神 誉田別命ほんだわけのみこと(八幡さま)

主なご利益「学業成就」「合格祈願」「家内安全

県下最初の権現造りの社殿に!

向かって右が拝殿、左側奥に本殿。

三芳野神社社殿の特徴は、この「権現造ごんげんづくり」にあります。

権現造り

神社建築形式の一つ。拝殿と本殿とを石間いしのま、または相間あいのまでつらねたもの。

京都の北野神社で平安時代に初めて造られ、豊国廟がこの形をとり、東照宮がこれを採用して以来、近世神社建築に多く用いられた。

まつられた東照大権現の名による称。

引用:”ごんげん‐づくり【権現造】”日本国語大辞典, JapanKnowledge

明暦2年(1656年)4代将軍家綱の命により、奉行を川越城主松平伊豆守信綱いずのかみのぶつな、幕府棟梁を木原義久として社殿の修理工事が行われます。

この際別棟だった本殿と拝殿に幣殿へいでんを増築し、現在のように本殿と拝殿が幣殿で繋がっている権現造りになりました。

「三芳野神社社殿及び蛭子社・大黒社 付け明暦二年棟札」より抜粋。

これが県下最初の権現造りだったと言われているよ!

さくらつみ
さくらつみ

これは慶安2年(1649年)川越藩主松平信綱が奉納した「三芳野天神縁起絵巻」や、平成元年から平成4年にかけて実施された三芳野神社の解体修理報告書によって明らかになっています。

さらに平成の解体修理が行われた際に、寛永建立当初の本殿と現本殿は本来別の建築ということが確認できたのです!

本殿は江戸城・二の丸東照宮本殿を移築!?

三芳野神社の本殿部分。

明暦2年(1656年)4代将軍徳川家綱の命によって社殿改修が行われた際、江戸城二の丸東照宮の御宮本殿が三芳野神社に移築され内宮となりました。

ちなみに江戸城二の丸東照宮の拝殿は、三芳野神社に参拝する庶民ため田曲輪たぐるわに移築され外宮となります。

さくらつみ
さくらつみ

そもそも東照宮って徳川家康を祀った神社だよね?
どうして移築なんて話になったんだろう・・・

ふりゅー
ふりゅー

早い話が「江戸城内に東照宮を建て過ぎちゃった」ことに問題があったんだよ

Q
江戸城二の丸東照宮移築までの経緯は?

元和2年(1616年)徳川家康が駿府城で亡くなると即夜久能山に葬り、同年3月東照大権現とうしょうだいごんげんとして日光に改葬されます。

その後各地に東照宮が造営されることになり、先立って二代将軍徳川秀忠が元和3年(1617年)、翌4年(1618年)江戸城内紅葉山に東照宮を建造し、元和8年(1622年)江戸城天守閣台にも造営しました。

世代が下って三代将軍徳川家光は特に家康を崇拝しており、江戸城天守閣下の東照宮を廃し、新たに寛永14年(1654年)二の丸御殿(城主の居住地)近くに東照宮を建立します。

しかし次代の四代将軍徳川家綱は「江戸城2か所に東照宮が鎮座するのは畏れ多い」と、承応3年(1654年)二の丸東照宮を紅葉山東照宮に合祀しました。

以上の経緯から江戸城二ノ丸に置かれた東照宮が空宮となったのです。

Q
「三芳野神社本殿が二の丸東照宮本殿だ」とする根拠ってあるの?

初代徳川家康より第十代家治までの江戸幕府将軍の事歴を中心に叙述した史書に徳川実記があります。


経済雑誌社『徳川実紀 第3編』経済雑誌社、明治37年-40年/69コマ

承応3年(1654年)11月14日の条に「空宮は取り払い川越仙波にうつさる」と記載されていますよね。

さくらつみ
さくらつみ

あれ?「川越仙波」って言えば仙波東照宮のこと?

ふりゅー
ふりゅー

字面のまま解釈すればそういうことになるな

しばらくは川越仙波東照宮が二の丸東照宮本殿の移築であると信じられていたんだ

しかし昭和38年(1963年)仙波東照宮の修理が行われ、移築の痕跡がないことが判明したのです。

ここからは確証ではありませんが、現在考えられている「川越仙波にうつさる」の解釈をご紹介します。

時代は遡り室町時代。

長禄元年(1457年)太田道灌が川越城を築城するにあたり、三芳野天神社(現在の三芳野神社)を城の鎮守として崇拝し、神社を管理するために別当廣福寺が建立されました。

廣福寺は寛永20年(1643年)川越仙波の幕府直営社・喜多院の住職天海より、「三芳野山高松院」の山号と院号を与えられ、三芳野天神社の別当寺であり喜多院の末寺となります。

つまり「川越仙波にうつさる」を「川越仙波(にある喜多院)にうつさる」と解釈すれば、幕府(喜多院・天海)の直轄下にあった三芳野神社に二の丸東照宮が移築されたと解釈されても不思議ではないのです!

昭和32年(1957年)に発見された「三芳野天神 別当 乗海覚書」に「江戸御城内 御殿一軒」を拝領したことが記されており、徳川実記の記事とも一致しています。

二の丸東照宮の拝殿が三芳野神社の遥拝所ならば、本殿は三芳野神社の本殿である

そう推測することが可能ですよね。

確証はありませんが、現在の三芳野神社本殿は江戸城二の丸東照宮の本殿であり、明暦2年に移築され大改修を受け、幣殿を増設して本殿と拝殿を連結して現在に見るような権現造り社殿となったと推定されています。

ちなみに高松院は川越城が廃城になった明治2年(1869年)に廃寺になってしまったよ

さくらつみ
さくらつみ
参考資料

三芳野神社氏子総代会『通りゃんせの歌発祥の地 学問の神様三芳野神社のへぇ~!』

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「とおりゃんせ発祥の地」石碑

三芳野神社はわらべ唄「通りゃんせ」発祥の地とされていて、境内には石碑が建てられています。

わらべ唄「通りゃんせ」とは?

わらべ唄「通りゃんせ」は、わらべ唄遊びの1つです。

創始は明らかではありませんが、江戸期のわらべ唄と言われていることから江戸期に始まった遊びと言えます。

曲名の「通りゃんせ」がそのまま遊事名として全国的通称になっていますが、地方によっては「天神様の細道」とも呼ばれていました。

Q
「通りゃんせ」の遊び方

鳥居の形を作る者を2人決め、両人は対面しそれぞれの左手と右手(あるいは両手)を組み、肩の高さに上げて鳥居を作る

他の者は一列縦隊になり、全員で「通りゃんせ通りゃんせ」と言って始まる

以下鳥居になった2人と他の者とがわらべ唄に準じて問答を行い、他の者全員が鳥居をくぐって「行きはよいよい帰りはこわい」という

歌い終わった時に2人組が両手で作った輪をもって人を捕まえる

捕まった人が次の鳥居役になる

地方によって遊び方に差異があるよ!

さくらつみ
さくらつみ

参考:ジャパンナレッジ 世界大百科事典「通りゃんせ

   NPO法人ゼロワン「ゼロワンの外遊び紹介:とおりゃんせ

三芳野神社参拝の様子を唄った歌詞に注目!

「通りゃんせ」は七つのお祝い(七五三のお祝い)で三芳野神社外宮へ参拝する様子を唄ったものです。

さくらつみ
さくらつみ

あのー・・・今更だけど、七五三ってどういう行事だっけ?

ふりゅー
ふりゅー

本当に今更だな
11月15日に行われる数え年で3歳と5歳の男児、3歳と7歳の女児を対象として、子の無事な成長と加護を願う行事だよ

もともと公家や武家の行事であった「髪置かみおき」「袴着はかまぎ」「帯解おびとき」が、子供の成長を祝う民間行事として江戸庶民の間に普及し、全国に広がって現在に至っています。

わらべ唄「通りゃんせ」の歌詞

通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細道じゃ

天神さまの 細道じゃ ちっと通してくだしゃんせ

御用の無い者通しゃせぬ この子の七つのお祝いに

お札をおさめにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい

こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ

現在の「七五三」で7歳のお祝いは「帯解き」といって女の子のお祝いですが、昔は子供の死亡率が高く7歳まで成長することが大変だったため、「7歳までは神のうち」と言われ、それまでの子どもの無事な成長を感謝して「お守り札」を天神様に納めたと思われます。

歌詞の「七つのお祝い」とはこのことを指しているんですね。

つまり誕生の宮参りにいただいて、身に着けていた「お守り札」を天神さまに納めに行く様子を唄っているのです。

境内に奉納された絵馬には「学問の神様」菅原道真公が描かれる。絵馬は川越氷川神社で購入可能。

ちなみに「天神さま」とは、三芳野神社に合祀された菅原道真を祭神とする北野天満宮のことです。

参拝可能な三芳野神社外宮も城内(田曲輪たぐるわ)なので、南大手門から田曲輪まで怖い警護の侍が詰めている細道を外宮の門まで行かないといけません

どちらにしろお城の中なので、一般市民をお城に入れるため当然、厳しい監視の目があります。

特に門を出る時の方が密偵などの機密漏洩などを恐れ、より厳しいチェックがあった事が「帰りはこわい」の意味です。

当時の一般庶民の参拝方法

先に述べた通り、三芳野神社は造営後幕府の直営社となり一般の参拝ができなかったため、現在の郭町浄水場に移築した外宮(二の丸東照宮の拝殿幣殿)の遥拝所に参拝していました。

ちなみに三芳野神社の本殿は天神曲輪てんじんくるわにあったよ!

さくらつみ
さくらつみ

現在三芳野神社に来るには本丸御殿の前の道路を横切り、神社の脇から入れますが、江戸時代は土塁に囲まれていました。

川越城本丸御殿側から見た三芳野神社境内の様子。
現在の地図で見るとこんな位置関係になる。

当時の三芳野神社参拝は南大手門から入り、田曲輪門を通って富士見櫓を左に見て外宮(遥拝所)に辿り着きました

そこから天神門を通りL字に曲がり、途中にある四足門・石鳥居をくぐると三芳野神社本殿に到着します。

三芳野神社本殿の参拝に関しては、「年1,2回参拝を許された」とも「遥拝所の外宮にしか参拝できなかったはずだ」とも言われています。

川越城南大手門跡」や「田曲輪門跡」「富士見櫓跡」には石碑が立っているから、実際に石碑を辿りながら巡ってみると当時の参拝者気分が味わえるよ!

さくらつみ
さくらつみ

ここだけじゃない!複数ある「通りゃんせ」発祥の地

わらべ唄「通りゃんせ」発祥の地と言われる場所は三芳野神社だけでなく、複数存在することをご存じでしょうか。

「通りゃんせ発祥の地」といわれる神社
  • 埼玉県川越市の「三芳野神社
  • 神奈川県小田原市「菅原神社
  • 神奈川県小田原市「山角やまかく天神社

いずれも学問の神様で「天神様」として馴染み深い菅原道真公を祭祀している神社です。

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県指定有形文化財の蛭子社・大黒社

写真左が三芳野神社本殿・拝殿。その前方に参道を挟んで大黒天(手前)・蛭子社(奥)が建つ。

蛭子社ひるこしゃ本殿大黒社だいこくしゃ本殿は同寸・同形式で三芳野神社拝殿の前方、参道に面し向かい合い、左右一対となって配置され社格を高めています。

さくらつみ
さくらつみ

拝殿からみて左が蛭子社、右が大黒社だよ!

ふりゅー
ふりゅー

こうやって並べてみると、形が瓜二つで面白いな

両社殿ともに平成4年(1992年)3月11日に埼玉県有形文化財に指定されている所がポイント。(参考:川越市公式サイト「県指定有形文化財 三芳野神社社殿及び末社蛭子社・大黒社 付明暦二年の棟札1枚」)

小さい社殿だからといって見落とし厳禁ですよ!

社殿は朱塗りの一間社流造いっけんしゃながれづくり見世棚造みせだなづくりで、ほとんど装飾のない簡素な建築。

屋根はこけら葺形の銅板葺です。

一間社流造・見世棚造
  • 一間社いっけんしゃ
    小規模な神社本殿形式の一つ。正面の柱間はしらまが一間のもの。
    (”いっけん‐しゃ【一間社】“, 日本国語大辞典, JapanKnowledge,)
  • 流造ながれづくり
    神社本殿形式の一つ。切妻造平入の母屋の正面に同じ桁行長さをもつ庇を取付け、母屋の屋根と庇の屋根をひと続きにした結果、切妻屋根の前面が背面よりも長く延びた形式をいう。
    (”ながれづくり【流造】“, 国史大辞典, JapanKnowledge,)
  • 見世棚造みせだなづくり
    きわめて小規模の社殿で、土台の上に組まれ、正面に階段のないもの。神社の末社、屋敷内、道路脇などに用いる
    (”みせだな‐づくり【見世棚造】“, 日本国語大辞典, JapanKnowledge,)

江戸時代に書かれた「川越御城内天神御社地並寺院由緒覚」によると、寛永元年(1624年)徳川家光の命により「末社」が建立されたと記されています。

蛭子社・大黒社の遍歴

明暦2年(1656年)の「三芳野天神別当乗海覚書」に「末社両宇」とあるのが相当すると思われ、元禄11年(1698年)の「元禄十一年川越市街屋敷社寺記」に「末社貮ヶ所共、表四尺四寸、奥七尺五寸」とあります。

しかし現社殿は正面四尺(約120㎝)、側面は身舎もやひさしを合わせても六尺四寸五分(約195.5㎝)であり、元禄の記録と一致しません。

さくらつみ
さくらつみ

わたしの超ざっくり計算で、一尺は約30㎝、一寸は約3㎝、一分は約3mmだよ

ふりゅー
ふりゅー

ざっくりしすぎだろ・・・。
ってことは、元禄10年の記録だと正面は約133㎝側面は約225㎝くらいになるのか

川越市立博物館に保存された神号額「蛭子社」の背面に享保19年(1734年)の年紀が記されていることから、この年に蛭子社などの修復が行われ、その際「蛭子社」が新調されたと考えられています。

大黒社の説明書きにはご神体の姿が描かれる。

同じく川越市立博物館に保存された大黒社のご神体は、木像一木造りで像・俵・台座はそれぞれが別れます。

台座裏に記された銘から大黒社は天保13年(1842年)6月に再建され、木像はその際に仏師定慶によって製作されたものだと分かります。

蛭子社・大黒社は同形・同寸なので、この年に蛭子社も再建されたと思われます。

現社殿は平成6年3月31日に解体修理工事が竣工しました。

蛭子社・大黒社の祭神
  • 末社 蛭子社 祭神 恵比寿神えびすのかみ(蛭子命)
    ご利益「豊漁繁栄」「航海安全」「金運良好」「交通安全
  • 末社 大黒社 祭神 大黒天だいこくてん(大国主命)
    ご利益「縁結び」「子授」「夫婦和合」「五穀豊穣」「商売繁盛

末社だからと侮るなかれ、これだけのご利益があるんです。

三芳野神社本殿に参拝したら、歴史ある両社殿にもしっかり手を合わせてご利益をゲットしちゃいましょう!

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ここも見どころ!

嘘か真か、川越城の七不思議「初雁の杉」「天神洗足の井水」

三芳野神社境内の「川越城七不思議」石碑。
ふりゅー
ふりゅー

そういえば、川越城には七不思議が存在するって知ってるか?

さくらつみ
さくらつみ

急に怖いこと言わないでよ~
その七不思議と三芳野神社に何か関係があるの?

川越城にまつわる七不思議。

川越城内の三芳野神社には七不思議のうち2つ、「初雁はつかりの杉」「天神洗足みたらし井水せいすい」の話が残っているのです。

川越城の七不思議
  1. 霧吹きりぶきの井戸
  2. 初雁はつかりの杉
  3. 片葉のあし
  4. 天神洗足みたらし井水せいすい
  5. 人身御供ひとみごくう
  6. 遊女よな川の小石供養
  7. 城中ひづめの音

川越城の別名になった「初雁の杉」

3代目の初雁の杉は平成4年4月29日に植樹された。

三芳野神社の本堂脇に「3代目の初雁はつかりの杉」と「初雁の杉の石碑」が立っています。

川越城内にある三芳野神社の裏には昔から大きな杉の老木があり、「初雁の杉」と呼ばれていました。

いつの頃からか毎年、雁の渡りの時期になると時を違えず飛んできた雁は、杉の真上まで来ると三声鳴きながら杉の回りを3度回って南を指して飛び去ったといいます。

そのため川越城は別名「初雁城」とも言われているのです。

写真はカナダ鴈が飛ぶ様子。

初雁とは秋にその年初めて北方から渡ってくる鴈のこと。

鴈は「かり、がん」と呼び、ガンガモ科の大形の鳥の総称です。

カモに似ていますが鴈の方が大きくて、対照的に首と足が長い特徴を持ちます。(参考:”がん【雁・鴈】“, 日本国語大辞典, JapanKnowledge)

多くは北半球の北部で繁殖して、秋に南方に渡るんだって!
今でも毎年来てるのかなぁ

さくらつみ
さくらつみ

三芳野天神の化身現る「天神洗足の井水」

三芳野神社の境内の様子。

太田道真どうしん道灌どうかん父子が川越城を築城するにあたって、堀の水源が見つからず困っていたところ、1人の老人が井水せいすいで足を洗っているのに出会いました。

この老人の案内によって水源を見つけた道灌は、かねての懸案を解決し難攻不落の川越城を完成させたといわれています。

かの老人の気品にあふれた姿に気が付いた道灌は、「これぞまぎれもない三芳野天神の化身であったか」と思い、以来これを「天神洗足みたらしの井水」と名付けて大事にし神慮にこたえました。

「天神洗足の井水」の井戸は三芳野神社付近と言われています。

広い境内のどこかにあったのかもしれないね

さくらつみ
さくらつみ

川越市では川越城の七不思議にまつわる土地を巡る「川越城の七不思議めぐりコース」なんてマップも製作しています。

興味をもったそこのあなた、マップ片手にちょっとマニアックな七不思議めぐりに出かけてみてはいかが?(参考:「川越城の七不思議めぐりコース」)

ここも見どころ!

三芳野神社に伝わる社宝

古い歴史をもつ三芳野神社には「掛軸」「画像」「鏡」「刀剣」など多数の社宝が存在します。

現在は川越市立博物館で管理され、企画展など限られた機会ではありますが見ることが可能です。

この項では厳選して2つの社宝をご紹介します。

8代将軍吉宗公が寄進!?「木造獅子・狛犬の随身像」

川越市立博物館特別展「川越ゆかりの美術工芸品」にて拝観。

8代将軍徳川吉宗が三芳野神社に寄付した」と伝わる随身ずいしん像で、川越市立博物館に保存されています。

阿吽1対で阿形は口を開いた獅子、吽形は狛犬です。

随身像

神社境内の神門に置かれ、神社を警護するものとして造られた像

(引用:鳥取県 地域社会振興部 文化財局 文化財課公式サイト「木造随身立像」)

吉宗公寄進の話は社伝の域を出ませんが、「懸社 三芳野神社由緒」(明治28年)に「将軍吉宗公 享保十九年八月 寄付せしものなりとも云ふ」の記載があります。

獅子・狛犬の台座裏に「享保十九年 庚寅 八月 /大仏師 葛岡采女・竹崎石見・両(雨)宮利京」の銘があり、同年に製作された事は確認できています。

この3名の仏師は鎌倉・鶴岡八幡宮の造仏に関わったことでも知られる江戸仏師で、享保19年(1734年)8月に仙波東照宮の随身像も手掛けました。(参考:川越市公式サイト「市指定有形文化財 木造随身像」)

享保19年銘とは別筆で、「安永七戌八月/御修復/黒田高山」とも記されています。

黒田高山は文化15年(1818年)に栃木・日光輪王寺、天海僧正座像の修復など、関東一円で10件を超える実績が確認されている江戸仏師です。(参考:東京文化財研究所公式サイト埼玉県指定文化財 天海坐像の修復処置受託研究報告第62号」)

目の前で見るとなかなかの大きさで迫力があったよ!

さくらつみ
さくらつみ

扇形のご神体「銅製扇形額」

続いてはちょっと変わった「扇形のご神体」をご紹介します。

銅製扇形額どうせいせんけいがくは埼玉県内の中世金工品を代表する貴重な作品として、昭和2年4月27日に川越市重要美術品・工芸品に指定されています。

社伝によると中世の「正平24年(1369年)南朝方の新田左衛門尉泰氏配下の武将、桃井宗綱が赤銅製五本骨の扇を奉納した」とあり、ご神体として祀られてきました。

その由緒にもとづき、現存する銅製扇形額は特徴がほぼ一致することからご神体の扇と推定されています。

扇面に「すすき」や「りんどう」などの秋草と流水、三日月に雲などを陽鋳ようちゅうして、武蔵野の面影を現しています。

ふりゅー
ふりゅー

三芳野神社の宝物類は川越市立博物館で管理されているんだな

さくらつみ
さくらつみ

常設展示はされてないけど特別展の折に見学できるから、チャンスがあったらぜひ見てみてね!

参考資料

実際に巡った感想

三芳野神社の境内には遊具が設置されていて、沢山の子どもたちが遊んでいました。

広い境内を駆け回る楽し気な声が響き、親同士で談笑する様子が見て取れ、とっても賑やか。

江戸時代には川越城内に組み込まれ、「帰りはこわい」と歌われる敷居の高い場所になった三芳野神社。

今では地元の人々が気軽に訪れ、のびのびと過ごせる場所になっているなぁと感じました。

川越城の本丸御殿拝観と合わせてこちらの神社も参拝することで、より深く川越の歴史を感じることができるのではないでしょうか。

神仏とのご縁をいただく

御朱印・お守り情報

御朱印

三芳野神社参道沿いの建物。おみくじや頒布物が並ぶ。

三芳野神社の御朱印(書置き)・絵馬は川越氷川神社で頒布しています。

三芳野神社→川越氷川神社の順で参拝される方は、川越氷川神社の授与所で御朱印をいただくのがオススメですよ!

川越氷川神社の授与所営業時間 8:00~16:30まで

※詳細は川越氷川神社公式インスタグラム「川越氷川神社」を参照

▼こちらの記事で川越氷川神社の授与所をご紹介しています

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「すでに氷川神社参拝を済ませちゃったよ~」という人もご安心ください。

書置きの御朱印が三芳野神社境内に用意されています。

初穂料 500円

筆者は川越氷川神社の参拝を済ませていたので、三芳野神社境内に用意された御朱印をいただきました。

日付の部分が空欄になっているので、自分で記入しないといけません。

その他の頒布物

三芳野神社について詳しく知りたい!」という方にオススメなのが、三芳野神社氏子総代会発行の手作り冊子「通りゃんせの唄発祥の地 学問の神様 三芳野神社のへぇ~!」

1冊 100円

三芳野神社のパンフレットもゲット。

三芳野神社の由緒などが詳しく書かれています。

なお、本記事は特別な注記がない限り、こちらの冊子を参考にさせていただきました。

合わせて巡りたい!

周辺のおすすめ史跡スポット

三芳野神社」に訪れた際に合わせて巡って欲しい、おすすめの史跡スポットを3つご紹介します。

1
江戸城二の丸東照宮の拝殿を移築

川越氷川神社

三芳野神社より徒歩約10分

川越氷川神社は1500年の歴史を持つ川越の総鎮守で、縁結びの神様を多くお祭りする神社です。

注目したいのが、川越氷川神社境内の「八坂神社」

社殿は江戸時代に三芳野神社の外宮(遥拝所)だった江戸城二の丸東照宮の拝殿を移築したものです。

その他にも彫刻が見事な「氷川神社本殿」や「勝海舟揮毫の額を頂く大鳥居」など、見どころが沢山ありますよ!

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2
川越の歴史を知りたいならここ!

川越市立博物館

三芳野神社より徒歩約3分

川越城二の丸跡に位置し、敷地内には門跡を示す石碑や川越城七不思議の1つ「霧吹きの井戸」が見られる川越市立博物館。

常設展示は原始から現代にかけての歴史展示、および民族展示とし、川越の歴史を総合的に理解できるように構成されています。

川越にまつわる膨大な史料のほか、豊富な解説や再現模型などが並び、川越の歴史を体感しながら学べますよ。

定期的に企画展も開催されています。

よりディープな川越を知りたい方は大満足間違いなしです。

3
川越城唯一の遺構

川越城本丸御殿

三芳野神社より徒歩約1分

三芳野神社と合わせてぜひ訪れたいのが川越城本丸御殿

川越城は鷹狩りなどで度々将軍が訪れ、本丸御殿は将軍のための休憩・宿泊施設「御成御殿」だったと考えられています。

現在に残る川越城本丸御殿は、嘉永元年(1848年)に時の藩主松平斉典なりつねにより造営されたものの一部で、川越城唯一の遺構です。

見どころは現存している「重厚な造りの玄関」や、「大広間の杉戸に描かれた松の絵」。

「家老詰め所」には家老人形が置かれ、当時の家老たちのやりとりを想像できて楽しいですよ。

平成20年10月から行われた川越城本丸御殿の保存修理工事に関する展示室も設けられており、豊富な写真で工事の様子を知れたり、実際に使用された鬼瓦を間近に見られたりと本丸御殿についてより詳しく学ぶこともできます。

まとめ

この記事では、三芳野神社の歴史や見どころ、巡った感想などをご紹介しました。

三芳野神社の見どころは5つ

  • 三芳野神社の本殿・拝殿
  • わらべ唄発祥の地石碑
  • 県指定有形文化財の蛭子社・大黒天
  • 川越城の七不思議が2つ「初雁の杉」「天神洗足の井水」
  • 三芳野神社の社宝

特に江戸城の二の丸東照宮本殿を移築した本殿や、わらべ唄発祥の地石碑など見どころが満載です。

川越城の本丸内に組み込まれた三芳野神社、ここを巡らずして川越の歴史は語れない!

川越城の本丸御殿すぐそばにありますので、ちょっと足をのばして参拝してみてはいかがでしょうか。

この記事で使用した主な参考文献
  • 三芳野神社氏子総代会『通りゃんせの唄 発祥の地 学問の神様三芳野神社のへぇ~!』

この記事を書いた人
さくらつみ
さくらつみ
ブロガー
長野県歌『信濃の国♪』歌えるタイプの信州人。1994年春生まれの戌年。自宅から徒歩5分の身近な史跡から、公共交通機関を駆使する遠方の史跡まで巡る、自称「史跡巡ラー」。新選組関連・長野県の史跡を中心に、「おすすめの史跡スポット」や「史跡巡りに関する情報」をゆるーく発信していきます。
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