2025.1.18(土)に長野県上田市で開催された「赤松小三郎講座」へ参加してきました。
それに合わせて赤松小三郎ゆかりの地を中心に、上田市街地・・・もとい上田城下町に点在する様々な史跡を巡って来ましたので、その様子をお届けしていきます。
上田城下町は真田昌幸の上田城築城とともに形作られ、現在の市街地の原型となりました。また、上田には旧北国街道が通っていたことから、宿場町としても賑わうようになります。
真田氏から始まり、仙石氏時代、松平氏時代を経て廃藩に至るまでの約400年の歴史が、上田市街地にはギュギュっと詰まっているのです。
そんな上田の町を思う存分テクテクして来たので、上田城下町を巡ってみたい!という方は是非参考にしてください。
題して「上田城下町、赤松小三郎ゆかりの地&旧北国街道を巡る旅」。
第1回目の今回は、上田城址公園二の丸橋から大手通りまでを歩き、赤松小三郎の通った「上田藩学校明倫堂跡」や、歴代上田城主が住んだ「上田藩主居館跡」などを巡って行きます。
それでは、明倫堂跡・上田藩主居館跡を巡る旅、スタート!
旅の始まりは「上田城跡公園、二の丸橋」から
本日の旅の始まりは「上田城跡公園、二の丸橋」。
1月の寒風吹きすさぶ中、風は強いが空は青し。長野県上田市のこの日の最低気温は-4℃。
長野県住みの私は今回、車で上田市を訪れております。上田城跡公園には有料&無料駐車場があるので、愛車をそちらに置かせてもらい、上田の市街地に繰り出します。
せっかく二の丸橋に立っているので、小ネタを1つ。
二の丸橋の標柱、この側面には顔文字のような立体的な模様がついています。コレ、何を表しているんだと思います?
正解は・・・「2のマルハシ(二の丸橋)」。分かりましたか?(笑)。
上田城は去年の春、桜の花見で訪れているので、今回は中をさらっと歩く程度に。また後程訪れます。
まずはここから「🚥大手1.2丁目」を渡って向かい側にある、上田藩の藩校があった場所に建つ「明倫堂跡碑」を目指します。まぁ、徒歩1分もかからないんですけどね。
上田藩文武学校 明倫堂跡
明倫堂は上田藩が文化10年〔1813〕、上田藩士の子弟教育のために創設した藩校です。
文学校と武学校から成っていたため、「文武学校」と称されていましたが、文学校の方は明倫堂とも呼ばれました。
赤松小三郎も天保13年〔1842〕から兄と共にこの学校に通っており、赤松小三郎の父親も句読師(漢文の素読や外国語の講読を教える人)として教鞭をとっていました。
明倫堂の建物は明治25年に城跡公園内旧本丸の地に移され料理屋となっていましたが、昭和54年に取り壊されてしまい、現在は跡地が上田市立第二中学校の敷地として利用されています。
上田城から目と鼻の距離にあり、お城を見ながら毎日学校に通っていた藩士たちの様子が目に浮かびます。
お休みの今日は校庭も閑散としていましたが、平日には部活や授業で駆け回る生徒たちのにぎやかな声が聞こえるんでしょうねぇ。江戸時代にも、藩士の稽古に励む声がお城まで聞こえていたのかしら。
それにしても、校庭をぐるりと囲んだ白壁とこの門構え。お城感が半端なくてめちゃくちゃカッコイイ。こんな所で学べるなんて、羨ましいなぁ。
明倫堂跡の地図
上田市観光会館
明倫堂碑がある中学校の道を挟んだ反対側には、上田市観光会館があります。
1階は上田市&長野県ならではのお土産が購入できるほか、2階は無料の休憩スペースを兼ねた観光案内所になっています。大河ドラマ「真田丸」で使用された真田幸村などの甲冑展示や、上田城の日本100名城スタンプがあったりと、ここだけでも十分楽しめますよ!
後から知ったのですが、上田市の「マンホールカード」も配布しているみたいです。わー、知らなかった。私の情報収集能力の低さが憎い・・・。(マンホールカードとは何ぞや?という方は、上田市公式サイトにて)
とにもかくにも、史跡巡りでちょいと疲れたわーなんて時には、休憩がてらに是非立ち寄ってみてください。
私は今回ここには立ち寄らず、上田藩主屋敷の門と堀跡を目指し、大手通りを直進して行きます。
上田市観光会館の詳細情報・地図
住所 | 〒386-0024 長野県上田市大手2丁目8−4 |
営業時間 | ◇売店 9:30〜18:00 ※季節により変動 ◇2階案内所 8:30〜18:00(平日) 9:00〜18:00(土日休日) |
定休日 | 年末年始休 |
アクセス | ◇電車 JR上田駅・しなの鉄道上田駅・上田電鉄別所線上田駅で下車 徒歩12分 ◇自動車 上信越自動車道上田菅平ICより4km 15分 ◇バス 上田市街地循環バス 赤運行(あかバス)上田駅乗車、 公園前下車(料金200円) |
関連サイト | ◇信州上田観光協会館 うえだとりっぷなび公式サイト 「上田市観光会館」「上田市観光会館・売店」 ◇上田市観光協会館売店 公式サイト 「長野県上田市お土産ショップ」 ◇上田市公式サイト 「マンホールカード配布開始のお知らせ」 |
真田愛溢れる大手通りを歩く
上田城の二の丸橋から真っ直ぐに伸びた大手通り。ここはかつて、「新参町」と呼ばれていました。
現在の大手通りはキレイに整備されていて、歩道のそこかしこに「真田十勇士」の解説版が、粋なイラストと共に設置されています。
上田市役所の手前にある休憩スペースには、真田三代の解説版も設置されています。
上田市の真田推し半端ないの。特に真田幸村が凄まじい。
私の守備範囲は江戸時代なので、正直真田関係はほぼノータッチなのですが。逆に真田ラブな方にはたまらない道路なのかも(笑)。
後程遭遇しますが、「真田十勇士モニュメント」も上田市街地のあちこちに設置されているので、上田市は真田愛に溢れた町と言えるでしょう(私の勝手な見解)。
真田愛に圧倒されつつ、上田市役所を目印に、「🚥市役所前」を右折していきます。
曲がった先、市役所を右手に進んでいくと、正面には「長野県上田高等学校」の敷地が見えてきます。
上田藩主屋敷門と堀跡
堀跡と解説板
突き当りにある「長野県上田高等学校」の石板から左側には、堀が続いています。
写真だと分かりにくいんですが、堀の水が所々凍り付いていました。寒々しい・・・。
堀沿いを進んでいくと、上田城下町絵図と共に上田藩主居館跡の解説板が設置されています。
現在立っているこの場所は、かつての上田城三の丸内に位置します。この場所に真田氏以降、仙石氏、松平氏と続いた上田藩主の居館がありました。
城主の御殿は城の本丸に設けられるのが一般的ですが、上田城は関ヶ原合戦の後に一度取り壊されてしまったため、やむなく居館をここに構えます。上田城復興の後も、藩主邸は移転せず明治維新までこの場所に建っていました。
廃藩置県後は、上田藩庁・東京鎮台第二分営庁舎・裁判所・学校などに使われ、明治33年に上田中学の設置と共に藩主居館時代の建物は取り除かれ、新しい校舎が建設されます。
そして現在、この敷地に上田高等学校の校舎が建っています。
堀沿いには解説板の他、上田高等学校の校歌が書かれたものや、表門・土塀・壕・土塁についての解説板が置かれていました。
居館があった頃は堀が四囲にあったそうですが、現在は東と北の一部を残すのみ。
土塀は江戸時代末期の構築。濠と土塁はほぼ真田氏時代に作られたままの状態を保っています。
堀沿いに進むと、立派な表門が姿を現します。
上田藩主屋敷門
これが学校の門だなんて、誰が思うのかしらと思うほど、堂々たる趣。
人を寄せ付けない感というか・・・すさまじい圧を感じます。
表門の横には学校名が掲げられており、これを見ると学校の校門なんだなということが分かります。
時間帯のせいか門は閉まっていましたが、校舎の方からは吹奏楽部らしき楽器の音や、運動部の掛け声が賑々しく響いていました。部活動中だったみたいです。
青春してるなー、学生たち。
迷惑にならない程度に、少しだけ近づいて表門を見学。
こちらの門は、薬医門と呼ばれる形の門。表門の両サイドにはくぐり戸がついています。
寛政元年〔1789〕閏6月(藩主松平忠済の時代)に居館を含め、この薬医門も出火が原因で全焼してしまっています。現在建つ門は、焼失の翌年に再建されたもの。
こんなに立派な門と土塀に囲まれた学校。守りは鉄壁です。
こうなってくると、門の内側が気になってくる私。ちょろっと押し開いて中を覗かせていただくことはできませんかね?
・・・(無言の拒絶)。
あ、だめですか、そうですよね。
門の前でウロウロする不審者ばりの私をも跳ねかえす鉄壁の守り。流石です。
冗談はさておき、現在薬医門は学校の正門として使われているため、外観のみの見学しかできませんが。その代わり、上田市マルチメディア情報センターの公式サイトに内外観の画像が掲載されているのです。
薬医門を入ってすぐ、目の前にある校舎の様子なども、360度パノラマ写真で見ることができるので、気になる方は覗いてみてください。
上田藩主屋敷門と堀跡の詳細情報・地図
住所 | 〒386-0024 長野県上田市大手1丁目4−32 |
アクセス | ◇JR上田駅下車徒歩10分 ◇上信越自動車道上田菅平ICより2km、約10分 |
備考 | 現在は、上田高等学校の正門となっているため、見学は外観のみ。 |
関連サイト | ◇信州上田観光協会 うえだとりっぷなび公式サイト 「上田藩主居館跡」 ◇上田市マルチメディア情報センター公式サイト 「上田藩主居館表門及び土塀・濠・土塁」 |
大手門跡と明治天皇行在所跡
不審行動を通報される前に上田藩主屋敷門を後にし、大手通りへと戻って参りました。
そういえば、上田市街地を歩いていると、この「道しるべ(数字)」と書かれた石柱をよく目にするんですよね。
これ、「信州上田道しるべ」というもので、観光客向けに町の至る所に設置されているのです。
この道しるべを辿ることで、上田城下町の観光スポットを余すことなく巡ることができる、優れモノ。
なんとこの道しるべ、上田市街地の中に40カ所近くあるんです。1日じゃあとてものこと、巡り切れませんね(笑)。
番号に対応する地図もあるので、それを見ながら市中を巡るのも楽しそうですよね!
さて、私が進んでいくのは、この道しるべで示されている「旧北国街道柳町」方面です。
なんだか冒険の地図を手にした気分になりながら暫く歩いていると、道路左側に「大手門公園」が見えてきます。
上田城三の丸の大手門跡
江戸時代、この周辺には三の丸大手口があり、大手門(城の正門)が建っていました。
現在でも地形からその跡を見ることができ、ここまで真っ直ぐだった大手通りの道筋が、鍵の手状にぐにゃりと曲がっているんです。
大手門公園の向かい側にある「上田商工会議所会館」の敷地手前に、それを示すパネルが設置されています。
現在上田商工会議所会館が建っている辺りに、大手門があったんですね。
大手門は町人町と侍町を区切る役割を果たしており、道路には「追手口番所」という番所や、木戸が設けられていました。
上田城の玄関口にあたる重要な場所だったので、警備もかなーり、厳しかったようです。
『諸国道中商人鑑』(文政10年〔1829〕刊行)に描かれた当時の大手門付近の様子では、番所に鉄砲5挺・弓三張・三つ道具(刺股・つき棒・袖搦)が置かれていて、厳重な警戒をしていたことが分かります。
また、大手口の入口手前には、かつて産物役所が置かれていました。
天保15年〔1844〕に設けられたこの役所では、上田縞・上田紬、明治初期には蚕種の検査等が行われ、上田藩領内の産業に重要な役割を果たします。
そしてこの産物役所、現在の八十二銀行の元になっているんです。長野県民お馴染みの八十二銀行。ここから始まったなんて、知らなかったなぁ。
ちなみに現在、ここから少し行った所に八十二銀行上田支店があります。なんというか、納得の立地すぎて笑ってしまいました。
大手口跡の地図
明治天皇行在所跡
上田商工会議所会館の敷地内に、ドドンと建てられた碑があるのを発見しました。それがこちら。
「明治天皇行在所跡の石碑」。碑には山縣有朋の名前もあります。
街道や宿場を訪ねると、なかなかの確立で遭遇する明治天皇行幸の跡を示す石碑。昨年、街道にハマっていた私は、軽井沢宿や追分宿なんかでも見かけましたが・・・ここにもありました。
明治天皇様ってほんと、いろんなところに行っているのね。
明治11年〔1878〕に行われた明治天皇の北陸巡幸。上田は9月17日に宿泊地になっているんです。その行在所にあてられたのが、当時この場所に建設された「上田街学校」でした。
明治天皇が巡幸に来る!ということで、この日のために町は総力を上げて建設に臨みます。完成した建物は3階建ての洋風建築で、とても立派なものでした。
後、この学校は上田尋常高等小学校分教場となるのですが、昭和31年3月に火事で焼失。当時の校長が責任を取り自ら命を絶つ、という一幕も。
上田商工会議所会館の地図
見つけられるかな?「真田十勇士モニュメント」
先ほど話題に出した、「真田十勇士モニュメント」。全部で10人が上田市街地のあちこちに潜んでいるのですが、大手通りと海野町商店街の交差点付近で、2人発見いたしました。
まずは「望月六郎像」。「🚥中央2丁目」の歩道にて発見。
町中で堂々としていて良いのかい?忍者くん。
もう1人。こちらは「根津甚八」像。真田幸村の影武者のひとり。
「ひとり」ってことは複数いるのかしら。
こんな感じで、町中にあと8人のモニュメントが設置されています。
上田市発行の「十勇士モニュメントマップ」があり、誰が町中のどこにいるのかが分かるようになっています。見てみると、結構広い範囲に散らばっているみたい。
マップ片手に町中を歩き回ってみるのも楽しそうですよね!
さいごに
上田商工会議所会館を右手に通り過ぎると、「🚥中央2丁目」の十字路に突き当たります。
信号を直進すると、通りの名前は「大手通り」から「旧北国街道」へと変わり、いよいよ街道歩きに移行してまいります。
長くなってしまったので今回はここまで。
次回は旧北国街道を歩きつつ、「赤松小三郎の養家跡地」や、赤松小三郎のお墓がある「月窓寺」を巡って行きます。
以上、明倫堂跡・上田藩主居館跡を巡る旅をお届けしました!
第2回目はこちらから▼
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